先週、祖父が89歳の生涯に幕を閉じました。
葬儀の席には親族並びに地域の方々、会社関係者並びに
関係諸団体の皆様にお越しいただき誠にありがとうございました。
心より感謝申し上げます。
我が祖父は晩年、特に大きな病気をすることも無く、叔母や施設の
皆様に手厚い介護を受けて眠るように息を引き取りました。
最期の瞬間に立ち会えなかったのは非常に残念ですが、まだ意識が
しっかりしているときにひ孫の顔を見せ、毎日3度病院に通えたので
心残りは無いはずです・・・。
仮通夜の席で近所のおじさんたちとご先祖様の話になりました。
そのとき覚えていることだけを文章にしておこうと思います。
吉本家は1684年に当時の延岡藩主の命を受け、播州赤穂より
延岡の地へ「塩田作り」の指導者として5家族がこの地に移り住んできた
そうです。山本家、日吉家、片伯部家、??家、吉本家の5家族です、
その長男の家系が我が祖父であり、伯父であります。家系図らしき
ものもありましたが、浜町の吉本家は過去をたどっていくと全てこの
ご先祖様にたどりつくことがわかりました。なので、他人と思っていた
近所のおじさんも実は遠い親戚だったのです。
そんな家系の12代目が祖父でした。寡黙な人で海人とは正反対の
人でした。海人は中学2年生の頃から親と一緒に暮らすのがイヤになり
この祖父の家に住んでいました。少しやんちゃだった海人は祖父から
「毛唐(けとう)」と呼ばれていました。
軍人だった祖父は機嫌が良いときはビールを飲んで戦時中の話を
よくしました、都城から満州に渡り通信部隊として中国中を歩きまわったと。
寡黙な人だったので父の兄妹で叱られた人はいなかったそうですが、
一度だけ、TVのチャンネル争いをして祖父が大好きな「水戸黄門」を
何度も邪魔してサンダルが飛んできたことがありました。
まだ部屋にTVが無かったし、今のようにPCや携帯電話も無かったので
ああなってしまったのだと思います。。。
そうそう、祖父は毎年祖母や近所の人たちと海外旅行に行っていました。
アメリカのディズニーランドのお土産のTシャツがお気に入りで小学校の
卒業アルバムにそのTシャツを着て写った写真が載っていました。
祖父はちょっと変わった習慣があって、寝る時は全裸でした。それは
海外でも同じだったようで、オーストラリアに行った先のホテルで夜部屋から
ちょっと出たと同時にオートロックがかかり全裸で閉め出されたことが
あったそうです。おそらくそんな状況でも慌てない祖父だったと思います・・・
89年という生涯は吉本家では最高齢です、長い長いでもあっという間の
人生だったかもしれません、お疲れさまでした。
海人家族もご先祖様の恩恵を受けて生活させていただいています。
いつも感謝の気持ちを忘れずに心がけてまいります。
おじいちゃん、本当にありがとう。
いつもそばにいる身近な人にこそ毎日感謝を伝えたいですね。